セミがないてるよ

理性っつー、じぶんを外からみる視点だとはよくいったもんで。

罪の意識を、西洋では神から、日本は世間体からの視線で持つ、らしい。

そのために、神や世間体が設定された。
自己を外部化して律するために。

けれど、
じぶんの顔をじぶんの眼で、直接みることなく死んでゆくんだ。

一度も。

せいぜい、鏡や写真の像としてみることくらい。

もし、じぶんが外からのじぶんをみることができたとしたら。

きっと

もっと、正しく、歩めるんじゃないか。
もっと生きやすいんじゃないか。


誤った道を選び後戻りできない未来で行き止まることなんてないんじゃないか。

そして、いまなにをすべきかもわかるんじゃないか。

その視線が手に入るなら、空をとぶ飛行機の模型をラジコンで巧みに綺麗にリモートコントロールし、操作するように、


じぶんのことも操れるんじゃないかな。


神の視座。


その神の視座にちかいのは、映画や本をみる観 客の注ぐ視線。

彼らは、そこに敵が隠れているからそっちにいくな!とか、いやいやそんなことしちゃあだめだよ!とか、その場を見通している限りにおいて、思う。


でも、ストーリーに観客も騙される。

予想外の展開や登場人物の行動に欺かれる。その裏切りがあってこそ、観客はその物語をおもしろい、と思う。

裏切りがなければ、学びも共感も興奮もなにも、あったもんじゃない。

裏切りをつくるのが脚本家。

観るものと、物語をつくるものとの、住み分けあって生まれる裏切り。

物語をつくる人間と、観る人間が一緒だったらどうなるか。


それが、ひとがいきる、ってことかなぁ。