0803.
ひとには、周囲からかなり正当な評価が下される。
もちろん、実態と評価にズレが生じることはありうる。
周囲という点がポイント。世間といえば広すぎて誹謗中傷がかなり含まれるし、ごく親しい人だけでは偏執な好評価が得られやすい。
周囲とは広すぎず狭すぎない、その人物と適度な時間、距離感で交遊できる範囲内という意味だ。
その周囲に属する人による、さまざまな評価を統合し平均化すれば、その人物が浮かび上がるんじゃないかな。。
頑張っているひともみているし、言い訳ばかり逃げているひとのことも、よくみている。
やっぱり、本人が思い描くものだけがその人自身じゃなく、周囲が描くそのひともその人自身である。
どっちも現実。
だから、まぁ身を律する必要はあるし評価へのアンテナもせめてバリ2くらいは張っておくべきかもしれない。
話は代わり。
なぜ、この世には摩訶不思議な恋愛とよばれる、きわめて非効率的で、非理性的な営みや概念があるのか。
それは恋愛がなければ、本当に優秀な人間以外は遺伝子を残すことができないからじゃないか。
やはり、 周囲から優秀と評されるような人間は、優秀なわけである。ここでいう優秀とは足が早いとか、目がいいとか、スポーツができるなどの動物性、仕事ができる、頭がいい、器がデカイ、思いやりがある、努力、優しいとか、はなしがおもしろい、などさまざまな評価項目があるだろう。
恋愛というぼやっとした主観的なマスキング効果がなければ、優秀であるかどうかというドライな評価にによってのみ、この人との子供=遺伝子を残したい、あるいは残すべきだと思うから、優秀な人間だけがモテててゆく一方だ。遺伝子を残すことは優秀な人間の特権になる。
非モテ人間は遺伝子を、残せず淘汰されてゆく。
だが恋愛を採用しない種としての生存戦略のあり方は、多様性を確保するという点では劣る。
aが優秀であると評される環境では、bができなくてもaができる人間の遺伝子が次世代に残る。
ところが、環境が変わり、bができることが要されると人間は生存できなくなる。絶滅してしまう。
たとえば、aは、発汗能、毛細血管拡張能、水分の保持など、暑いことに耐える能力で、氷河期に突入して、毛や皮膚など寒いことに耐える能力、bを求められるようになるとき、などが当てはまる。
まぁ雑な例だが。
だから、恋愛によって優秀であるか否かを、マスキングすることでそれを解決しているのではないかな。
ちょっといいなとおもっただけで、それをきっかけにすべての点が良く見えるようになる。あばたもえくぼ、というような感じで。
恋愛がなければ、あばたはあばたであるということになる。
ちがうかなぁ。ひとつの仮説として。